帰納法を正しいと仮定すると云々、帰納法は正しいの?帰納法が疑わしいとされるようになったのは何時から?この様な質問が登場するのはなぜか。


(0)正しい・正しくないとはどういう意味か。

grueのパラドックスなるものが有るらしいですね。仮定として「帰納的推論は正しい」を立てると矛盾が起こるということらしい。ネット上の記事で、その仮定を見たとき、小生は目が点になった。二〇世紀の専門の哲学者が、そのようなばかばかしい仮定を立てるとは信じられない!

---他の記事をいくつか拾い読みした所では、帰納法自体ではなく言語の問題であるようです。が、ある記事でこれを取上げた方は、帰納法に対する疑問を提示したものである、と真面目に書かれています。それにもあきれますが、逆に見ると、「帰納法は正しいの?」という疑問を持つ人が居るのは、珍しいことではないということでしょう。なぜそういうことになっているのか?


イ)演繹的推論は正しいのか?

知恵袋のQ&Aで、演繹的推論も常に正しいわけではない、だから推論と言うのだ、と回答している方がいました。これは、---人間の言うことは如何なる発言でも信じないと言う方は別として---、「推論」という言葉の使い方に誤解があるのですネ。確かに「推論」という言葉だけであれば、正否は別にしているのです。正しくても正しくなくても推論と呼んで良い。しかし、「演繹的」と形容したときには、正しいと言う判断がついている筈なのです。「演繹的推論」と呼ぶことは、すでにそれが正しいと共通に判断されたか、誰かがそれは正しいと判断を下している筈なのです。すなわち、「演繹的推論は正しいのか?」という疑問は、「演繹的推論」という言葉を取り違っている、と言うべきでしょう。「正しい推論は正しいか?」と聞くのはおかしいだろう、と言う外ない。


ロ)帰納的推論は正しいのか?

演繹対帰納という言い方をする時点で、「帰納法は正しい」という言い方は成立しない、と判断出来ない人が居るのですネ。それは、科学の方法として帰納法が使われているのだから、正しい筈だ、と思っている所為かもしれません。学校教育の中で、キチンとした位置づけに於いての説明が為されていないのではないか。科学は正しい、従ってそれが齎す結論は正しい、当然にその方法も正しい、ということでしょうか。トップダウン式に正しさが降りてくる、と思わされている!ここで教育のことを嘆いても仕方ない。問題の因を探ってみましょう。一つは、「正しい」という言葉の意味の混線&混戦がある。


(1)「カラスは黒い」は正しい推論?

前回に挙げた<例一>は、帰納的推論の形をしています。「帰納法を正しいと仮定する」という場合、<例一>はどういう扱いになるのか。小生の前回の基準からしますと、今では帰納的推論ではない。「却下された帰納的推論」と呼ぶのは構わない。

---なぜ却下されたのか、詳しく逐ってみます。(以下ではカラスにも細かく種類があるという点は横に置いておきます。)

イ)3例では単なる憶測である。:数が少ないことを挙げれば、身もふたもないと言うところです。3例というのは、有限個の事象から推論したということを象徴したものに過ぎない。

---必要なのは数を増やすと言うことではなく、その数の持つ意味なのです。反例を持たないと言うことでなければならないのだから、その有限個の実例の信頼度、実例の調査域(どこまで行き渡っているのか)、一言で言えば推論するに足る事例を持っているのか。カラスのことなら、日本野鳥の会に聞くとか、テレビのニュースで「黒くないカラスを見かけた人はご一報を」と情報を募るとか。このように、事例を増やす手段はいくつもあり、学問的なものとしては手間暇をかけるべきなのです。が、それでも有限であるのは変わらないじゃないか、となるでしょう。

ロ)反例がある。:致命的なものです。

---反論として、「白いカラス?」それはカラスではないだろう!誰がそれをカラスだというのだ、と言う見解もあり得るでしょう。黒いということはカラスの属性ではないのか、というわけです。しかし、属性であるならば、帰納的推論は必要がなかったことになります。問題になっているのは、「黒い」をカラスの属性であると判断できるのかということです。


以上の2点、イ)とロ)が互いに関連するという点を見ておかなければ、帰納法の考察として不十分です。


(2)「カラスは黒い」という判断

「このカラスは黒い」という判断は、現認した個体をカラスであると見、その個体が黒い、と見たということです。「あのカラスは黒い」も同じです。個体という部分を取った「カラスは黒い」という判断は、カラスと呼ばれる個体が黒いものである、というものです。ある個体をカラスであると呼ぶ判断基準が、色以外に別途あって、判断されるわけです。鳥類学者とか昔からの博物学的知識の連鎖で決められるものに、我々一般人は従うのですが、それを「カラスの定義」と呼んでおきましょう。


○「このカラスは黒い」という判断は、現認した個体をカラスの定義に適合したものであると見、その個体が黒いと見たということです。

○「カラスは黒い」という判断は、カラスの定義に適合した個体はすべて黒いものである、という判断です。


カラスの定義から、論理必然的に「羽の色が黒い」が導出されるのなら、演繹的必然。自然科学の法則によって導かれるなら、法則的必然。そう呼んでおきましょう。帰納的推論をするということは、演繹的にも法則的にも「カラスは黒い」が導かれていないのです。反例があるということは、その定義からは「カラスは黒い」が導かれないことを確証しているということです。


「カラスは黒いか?」はカラスにとっては、知ったことではない。それは「カラスの定義」と「羽の色」との関係の問題であって、自分たちカラスの問題ではなく、君たち人間のする定義の問題だ!とカラス君は言うだろう。


判断から見ると以上のように、定義とその対象物との関係となります。

一方、<例一>だけを見ると、「カラス」なるものが存在し、その色は如何という形です。「カラス」なるものの具体例1がこのカラス、具体例2があのカラス、という体です。如何にして「カラスの定義」が生まれたかは不問にして、あたかも「カラス」なるものが先在するかの如く扱っている。そして、その先在する「カラス」なるものの色が黒いか、という形です。

帰納法は、有限事例から可能的無限へ、個別事例から普遍的法則へ飛躍するものだ、という見解はそこから生まれたものではないか。帰納的推論の結論は一般命題・普遍的法則であるわけですが、だからといって飛躍した先の世界が形而上学的世界かどうかは、別の問題でしょう。帰納法としては、「判断としての妥当性」を検討するべきでしょう。「カラスとは何か」ではなく、「カラスの定義」はいかに成立するか、です。


(3)「カラス」の定義

生物種の分類は本論ではないので横に置いて、現代では遺伝的系統が主であろうとしておきましょう。DNAの解析によって進化系列・近縁関係を推定するわけです。羽根の色がどうなるかという因子は従属的なことでしょう。複数の色・特徴的な形を持った鳥とはちがって、単純である分、強い系統性を持つかもしれません。が、そういった現代的分類ではなく、「カラス」という名称はもっと以前からあるでしょう。

海外ではいざ知らず、日本ではカラスと黒いは殆ど同義語になっています。日本で「定義」ということを論理的な意味で検討されたことがあるのかどうか、不勉強で知りません。中国伝来の学問として、名前が分類を示すものでもあるということは、あるレベル以上の学者には分かっていたでしょう。現代の高校ぐらいの論理レベルでしょうか、細目に関しては彼らの方が遙かに上であるにしても。

そうであるとするなら、<例一>は小学生レベルの例題、というべきではないか。生物種の分類という視点が獲得されたなら、---神話的時代に生きている方は除き---分類基準は経験的に得られる徴表にしかないことは明らかです。その個体をカラスであると判断するのは、徴表がそうであることしかあり得ない。分類的視点で<例一>を書き換えるなら、


<例三>帰納的定義

階梯一

前提:これまで観察されたカラスはすべて黒かった。

よって

帰納的結論:カラスは黒い。

階梯二

カラスの属性に黒いを追加する。

階梯三

反例:色以外のすべての徴表をみると、カラスとまったく同じである鳥が見つかった。

よって、帰納的推論を棄却し、

結論:カラスの属性から黒いを削除する。


ある帰納的推論が誤っていると発見されたことは、経験的知見が拡張したことを意味する。

帰納法を考えるに当たっては推論の形式だけではなく、周りを固める「定義」も考慮されなければならない、ということです。この世界に「カラス」なるものが存在すると考えるのではなく、我々がカラスと呼ぶ対象が存在する、というのが、帰納的推論を有効だとする場合の考え方である。


(4)「帰納的推論は正しいのか?」

「帰納的推論は正しいのか?」という問い方は、個別の推論と一般とを合わせて5重の意味を区別するべきだろう。

イ)その推論が、帰納的推論としての要件を充たしている?

ロ)その帰納的推論の結論が、別途正しいと証明された?

ハ)あらゆる帰納的推論は、正しい結論を持つ?

ニ)帰納的推論は、その結論が超時空的な正しさを持つ?

ホ)科学の方法として帰納的推論を用いるのは、正しい?


---まず、ハ)が否定されるのは明らかではないか。


(5)帰納的推論の時空性

一般に帰納的推論は、超時空的な真を主張しているのか。

一般的とされる命題は、超時空的なものです。<例一>でも「カラスは黒い」というのは、ある時にある場所で黒いと言うのではなく、常にそうだと言っているものでしょう。それにひきかえ、前提となる事象というのは、我々の経験が一般的にそうであるように、時空的です。帰納法とは、或る時・或る処で観測された事実を以て、如何なる時にも、如何なる処に於いても斯なる、という主張だ、と一般的には見えるでしょう。しかし、我々の通常使う言葉が、超時空的なものを指すように見えるからといって、我々が超時空的なものばかり相手にしているわけではないでしょう。むしろ超時空的ということのほうが特別なのではありませんか。


---命題的に表現された判断が超時空的であるのは当たり前、判断の対象が超時空的かどうかは、別の問題。「黒い」がカラスの定義に含まれているとするなら、「カラスは黒い」は超時空的に正しい。そうでないなら、反例が見つかるまでは正しい、と言うべきではないか。それが帰納法を学の基本に据える立場というものではないか。


---自然科学の法則は超時空的であろうと考えられるかもしれません、果たしてどうか。そこに至るにはJ・S・ミルのいう「自然の斉一の原理」Uniformity of the natureの検討が必要であろうと思いますが、ちょと手強いですネ。